こころ、てくてく……表現するこころ

漫画家 海山かのんが こころのこと 表現のことなどつぶやきます。

ibisPaintで素材遊び

ひとりでお茶しているときなど、ふっと気持ちを形にしたくなることがあります。

 

大きな河原の土手に座っているなら、そのへんの石ころをぽんと放り投げて波紋をつくるような。

 

そんなとき、ペイントソフトで遊んでみたりします。iPhoneで、なるべく手軽にできるように、素材をちょいちょい重ねたり、すでにある自分の絵や写真をフィルターで雰囲気付けしてみたり。

 

久しぶりにソフトを開いてみたら、フィルターの種類が増えていたので遊びました。

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うちに咲いているお花の写真です。

何てことないけど、思いがけない変化にちょっと笑顔が出ます。

 

ハマスホイを観て浮かんだイメージ

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じんわりと光の滲んだ、暑くも寒くもない、フラットな記憶の場所。

 

何気なく塗り重ねていつのまにかできていた、心の空間の響像。

 

 

東京都美術館で開催されている、『ハマスホイとデンマークの画家 』を観たあと、心に滲んできたイメージをメモしたのが、冒頭のイラストです。

 

それは学生の頃、日々行き来した講堂への階段の踊り場。日によって、微妙に窓から落ちる光の位置や表情が違っても、殆ど無意識に通りすぎていた場所。

 

知らず知らずこころの奥深くに醸成されていた空間。

 

 

ハマスホイの、極限までより抜かれ、絶妙な配置で、熱の伴わない親密さで描かれた物や人からは、微細な響きがたちこめています。

 

それらのイメージが私の記憶を刺激して、辿り着いた場所がこの踊り場。

 

しかしいまだ煩悩が一杯で記憶に色眼鏡がかかるのか、何となく騒々しい。

 

空間に語らせるようになるほど、突き詰めることも、禁欲的になることも、私にはできないのでしょう。

 

 

ハマスホイは以前にも、国立西洋美術館で展覧会が催されており、観に行ってます。カタログを見ると2008年です。え、12年も前なの? 

 

その時は、とにかく私の記憶ではガラガラでした。21世紀になってから、主だった展覧会の混みようが酷くて、その中にあってゆったりじっくり、芸術鑑賞らしい時間を過ごせたので大変印象に残っているのです。

 

今回は、「デンマークフェルメール」という謳い文句が効いたのか? そこそこの入りに見えました。

 

それでも他のヨーロッパの画家のものに比べると、余裕を持って鑑賞することができたようです。

 

前回は「ハンマースホイ」と表記されていたのですが、今回は「ハマスホイ」。どちらが実際の呼び方に近いのでしょうか。

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新年のアニメ…『オトナの一休さん』

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新春特番をいくつか録画してあった中に、Eテレのアニメ、『オトナの一休さん』というのがありました。やー、面白かったです。バカボンのパパを寺に放り込んだらこんな感じでしょうか。

 

きっちり組織の道を歩んだ、兄弟子との確執が特に面白いです。もっとも色々書き残しているのは一休だけで、兄弟子は言われっぱなしなんですけどね。

 

禅画風のアニメの絵も生き生きとしていて、刺激され私も自分なりにひとつ描いてみたのが冒頭の絵。

 

肖像画を見るとかなり描きやすいお顔立ちです。一説には天皇のご落胤とも伝えられるので、どこかに品の良さを込めたくもありましたが、ただの庶民のオッチャンになりました。

 

一休和尚が、色々することをなさっていらした、というのは何処かで耳にしたことがありましたが、それを漢詩で細々書いて残しておられる、というのは、このアニメで初めて知りました。良くまあ現代まで伝え残ったものです。

 

釈迦の道を極めるお坊さまとしてどうなのか、…判断できませんが、周りに愛された人ではあったようです。マンガ向きかどうかでいえば、ダントツです。

 

いずれにしても、あれこれ振り幅の大きい生き方には元手がかかると思うのですが、それはどこから来たのでしょう。生まれの良い人ゆえ何か後ろ盾、助け舟が、切羽詰まると出て来たのでしょうか。

 

 

コミックマーケット97…30日(月)南館マ−09b

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明日12月30日(月)、コミックマーケット97にサークル参加します。サークル名『MIZUTAMA』です。

 

今回新刊『賢治と女子』を出します。宮沢賢治と女性たちのエピソードを描く新シリーズです。

 

賢治のことを色々調べていくと、何かこう、どうしてこうなっちまうのかなぁ? という場面にぶつかります。それは彼が優先する理想に押されて、目の前の関係性や物事のタイミングにずれが生じることが要因のひとつではないか、と私は考えます。

 

女性との関係性にもそれがあったのではないかな、と思うのです。

 

大きな志を抱いたとき、それが人生の中で生きるような形で位置付けるには、どうするか、という問いに繰り返し戻ってくるようにも思います。

 

とはいえ、この場はマンガなので、

『賢治のモテ期』

『としさんとファッショントーク

という軽いノリで描いています。

結構真面目な内容でもありますよ。

 

既刊の『賢治とワンニャン』も出品します。

こちらは、4本ショートコミックの詰め合わせで、賢治と動物、親友保阪嘉内のお話『炎の人保阪嘉内』、私の賢治体験、賢治と旧かなづかひ、を扱っております。

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明日コミックマーケット97に遊びに来られる方はぜひ実際にお手に取ってご覧頂けましたら、嬉しく思います。

 

 

クヌート王子覚醒?....『ヴィンランド・サガ』

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アニメ『ヴィンランド・サガ』のキャラ達の運命が気になって、観続けているのですが、主人公と対になっているような、クヌート王子もまたハラハラさせる奴です。

 

少し内容に触れます。知りたくない方は回れ右でお願いします。

 

 

 

 

王子のどんな所がハラハラか、というと…

数回前放映された回で、彼は育ての親ともいえるお付きの爺やを失ったのですが、爺やは、父王から愛情も承認ももらえていない王子にとって唯一の心の拠り所であり、彼はいきなり心の瀬戸際に追い詰められました。

 

もう自分を愛してくれるものがこの世にない、と嘆く王子クヌートに、やはり付き従って来た神父が、諭すように囁きます。

 

爺やが王子を大切に思うのは、差別であって愛ではない、と。

 

神父はさらに諄々と宗教的見地から、まことの愛とはなにか、説き尽くし、

 

程なく王子クヌートの心は、奇跡的な転回を遂げることになります。

 

愛情を求めて地面を這いずっていた心が、一気に神の高みにワープし、救済者に変貌したのです。 

 

クヌートは、どうなってしまうのだろう。そんなジェットコースターのような変化に、心はついていけるのだろうか。

 

王子様、ほんとうの愛をこの世にもたらすのはそう単純ではないのでは? 愛と死を一気にくっつけるのは危なくないですか。だいたい凡人は生涯にわたって、自分に出来る、ささやかな「愛のようなもの」を限りなくミルフィーユのように積み重ねていくしかできないのでは? …などとオバサンはテレビに向かって思わず呟いてしまった。

 

宮沢賢治が、

「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである」

とか、

「私は一人一人について特別な愛といふやうなものは持ちませんし持ちたくもありません。さういふ愛を持つものは結局じぶんの子どもだけが大切といふあたり前のことになりますから。」

などと書いていたのを思い起こしました。賢治もある意味王子様のような育ち方をしていると思いますが。

 

コミックスがもう沢山出ているので、クヌートのその後も描かれているのでしょうね。私はまだ未読で、アニメ終了後にまとめて読むのを楽しみにしているのですが…。

 

ヴィンランド・サガ.....父上!

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ヴィンランド・サガ』のことちょっと。ネタバレしないつもりですが、全く情報入れたくない人は注意してください。

 

主人公トルフィンは、復讐に燃えがちなので、だいたいこんなふうに短剣を構えている気がして、そのように描いてみました。仇のほうは妙に余裕をかましている風ですね。

 

押しかけアニメとして現れた「ヴィンランド・サガ」をずるずると観ているこの頃なのです。押しかけ、というのは、これの前に放映されていた「進撃の巨人」を毎週予約設定していたのを、放映終了したのに解除し忘れていたら、後続の「ヴィンランド・サガ」が問答無用で録画され続けたというわけです。

 

舞台は11世紀の北欧を中心に、戦いにつぐ戦いのバイキングの世界。

 

なんじゃこの殺伐としたアニメは、と見るともなしに見るうちに、主人公トルフィン君は、いったいどうなるんだろう、と、思わず観続けるはめになりました。

 

そうさせるツボは何かなぁ、と考えるに、トルフィンは、幼時の、父上からの大きな存在肯定という、心のお弁当というか、灯りひとつを奥底に内包し、否応なく放り込まれた、殺戮まみれの日々を、生きている。

 

で、父上の残響は、トルフィンが絶望だかトラウマだか復讐心だかでぐちゃぐちゃに塗り込められ、むしろ何も感じなくなってしまっているかのような、そんな極地で、ふと重要な問いかけをしてくる。

 

そんなふうなので、トルフィンはどうなっちゃったかなあ、と、毎週確かめているのです。父上が示したテーマを刻印されて彼はどんな心の軌跡を描いていくのでしょう。

 

少し、例えがぴったりとしないかもしれませんが、森茉莉が、鷗外パッパの圧倒的な存在肯定という燃料を生涯灯し続けて、過酷になっていった実生活をしのぎ、作家生活を立て、生き抜いたように、トルフィンにとっても父上の残響は支えとなり軸となっていくのでしょうか。

 

 

大変な人気作品でコミックスもたくさん出ているようなのに、不勉強で全くこのアニメを観るまで、知りませんでした。せっかくなのでまっさらのまま、原作はなるべく読まずにアニメで展開を楽しもうかと思っています。アニメ終了後、漫画をじっくり読みたいですね。

 

でも、戦闘シーンはやっぱりしんどいなあ。 

世間学会によせて…義父の法事の磁力

自分が普段優先している事が、法事とぶつかり、仕方なく法事を選ぶ。「法事なの、義父の。」と言うと聞いてる相手も、「そうなの、大変ね、」で通ってしまう。でもどうして法事を選ぶんだろう? って自問したらあまりはっきりと答えが出ない。

そもそも、「 仕方ない、」って何なの?

義父の法事に、そんなに磁力を与えるものっていったい何なの?

 

その問いに、日本は、社会と世間、の二重構造で動いている、世間って何なのか、という視点から光を当て、対象化しようとするのが、世間学会で話し合うことのひとつです。

 

11月9日(土) は年に二回の世間学会の開催される日で、楽しみにしていたのですが、私は義父の法事のため出席しません。

 

毎回私は4ページ程の、『世間ぐるぐる』というエッセイ漫画を置かせていただいているのですが、今回分をブログに上げようと思いました。そこでストレートに今回のことをテーマに軽く描こう!とはじめたら甘かった。なかなか後半が決まらず、1ページのみのアップになってしまいました。続きはなるべく早く上げたいと思っています。

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そして、世間学会でいつも前回学会時に発表した作品も置かせていただくのですが、今回はそれもここに上げさせていただきます。

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