こころ、てくてく……表現するこころ

漫画家 海山かのんが こころのこと 表現のことなどつぶやきます。

訪れた庭園にて

 

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田や畑、水場を含んだ大きな庭園でぼんやり過ごし、鳥や虫の声、風音に包まれていると、大地、地球は、人が今騒いでいる問題など関心なく、淡々と営みを続けているのだな、と感じました。

 

人など居なくても何億年も地球は地球をしてきて、表面にさまざまなことが生起するに任せていたのでしょう。

 

ガーベラの真っ直ぐな咲き方に惹かれ、写真を数枚撮り、画像に手を入れているうちに、なんだか花芯のあたりが最近TVでときどき見るコロナの画像やCG に見えてきてしまった。

 

忌み嫌われるコロナも、ふと、やはり命の一つの形なのだろうか、と思ったことです。

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呼吸するガーベラ

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出かけた先の庭園でガーベラが群生しているところがあったけれど、それを見た時、私には一瞬何の花だか分からなかった。

 

ガーベラといえば一輪で、花屋さんやホームセンターの鉢で行儀良く、どこかぼんやりした風情でたたずんでいるのを、見慣れていたからでしょう。

 

それが首をあちこちにぐいぐい伸ばし、他の植物とも張り合うように、大きさも背も色もとりどりに、ある。

 

これがガーベラの本来の咲き方に近いのかな、いや、鉢植えの一輪咲きのガーベラがどう感じているかはわからない、意外と、ライバル無しでのんびり咲いてるのを気に入っているのかもしれない、などと、私はつい思いを巡らせる。

 

ここではランタナも、こんなふうに広がるの?というくらいに可能性を発揮している。ちっちゃい鉢植えを枯らしたことしかなかった私は驚くばかり。

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銀河鉄道のアマビエ2……賢治とアマビエが会っていたら?

 

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江戸時代、疫病から人を守るというアマビエという神様は、出現時に、「私の姿を描き、人々に見せなさい。」と告げたそうですが、そのとき目の前で対応した人物を「コイツは絵心あるぞ。」と見てそう言ったのではないでしょうか。

 

その人物が描き広めたであろう瓦版のアマビエのチャーミングさを見て、私はそんなふうに思います。現在おまんじゅうなどいろいろな商品のキャラクターの元になっているのもうなずけます。

 

ならば、宮沢賢治の前に現れたとしたら、「私の物語を、詩を書いて人々に見せなさい。」と告げたかもしれません。

 

そして賢治はアマビエの守護でお話を書き、彼の病も癒え、末長く作品を……とはならず、彼は晩年、東北砕石工場の技師として、猛烈な営業活動の途上、汽車で冷気にあたり病勢が増し、二度と活動して回れるような身体に戻ることなく、2年後に亡くなります。

 

いつも賢治はそのように、己の弱い体に盛りきれないほどの信念を優先させて、結果命を縮めてしまったように見えます。

 

彼の、唯一無二といえる手ざわりと輝きを持った創作空間を、私たちに残してくれることを最優先にしても良かったのに、そのためにぐっと堪えて、養生してくれていたら、と、つい、考えてしまう。

 

もちろん、賢治は彼の信仰の世界観に、命がけでコミットしていたのであって、彼の信念や行動と作品はひとつで、切り離せないであろうことは、承知しているつもりです。

 

だからこそ賢治は、雨にも風にも負けない丈夫な身体を、信念を盛り切れるような身体を望んで、詩にも記したのでしょう。

 

それでも私は思ってしまう。もっと、見たかったなあ、と。

 

今の人でいえば、藤井風さんのように、生まれ育った土地の空気やことばと、己の培われた能力たちがまろび合って、あふれ出すような、そんな独特の手ざわりをもった創作空間を、私は果てなくもっと、見たかった、老年様式まで読みたかった。

 

というのが、研究者でもない、貪欲な1ファンの、詮ない夢想です。

名残り惜しいさくらんぼ

 

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あまり堪能しないうちにいつも季節が過ぎてしまう…

 

なぜかなあ、と考えてみた。

さくらんぼのイメージと感触にはとても愛着を持っている。もちろん味にも。でも愛の量に見合った消費をしていないな、と思う。

 

子供たちの誕生日がこの時期で、子供に作る誕生ケーキにのせるフルーツは毎年さくらんぼだったけれど。

 

わが家は毎朝何か果物を少しずつ、コーヒーを飲みながら食べている。この季節、何となくオレンジやキウイを選んでしまっているような気がする。さくらんぼが実際に食卓に並ぶ頻度は、多くない。

 

さくらんぼより当たり外れが少ない、とか、いちばんは、かけた値段に対しての果実量の差、かもしれない。私の家族はよく食べる人たちなので、そこはつい優先されてしまう。

 

しかし、東北でさくらんぼを作っている友人によると、さくらんぼはとても難易度が高い作物なのらしい。高めの価格はそれだけ手がかかっているかららしい。そう聞くと、安価な輸入物に手を出してしまう事に、少し後ろめたさを感じる。

 

今年も今ひとつ食べ足りないままさくらんぼの季節が過ぎようとしている。画像は食べる前に撮ったものを加工。もう一度食べたい気持ちを込めてみた。

『どこかに美しい村はないか』上映されます。

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私が宮沢賢治の漫画で参加している、ウェブマガジン『MIZUTAMA』代表田下啓子さんがプロデュースされた映画、『どこかに美しい村はないか』が、7月4日(土)、5日(日)に、岩手県宮古市のシネマ・デ・アエルにて上映されます。監督は能勢広氏です。

 

映画の公式サイト( 冒頭の映画のチラシの絵の下のリンクから飛べます) では監督と田下さんの本作にまつわる対談の動画や、予告編がご覧になれます。音楽を担当されたRakira 氏の祝福感に満ちた楽曲の一部も聴くことができます。お勧めです。

 

また、上映されるシネマ・デ・アエルのサイトはこちらです。

https://cinemadeaeru.wixsite.com/cinema-de-aeru

 

よろしければ過去記事もご覧ください。

色鮮やかなさくらんぼに

 

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いつの間にかさくらんぼの季節ですね。色鮮やかなわりに、今日のは甘くなかった。甘くないさくらんぼをつまみつつ、何だか疲れているなあ、不安続きだったし、それを紛らわす幅も少なかったし、と、この春を振り返りました。

 

もちろん、生きてきて不安のなかった時期なんてないのだけれど。

 

生きてる以上、生病老死の苦はあるし、災厄の渦中であっても平時でもそれは通奏低音のようにそこにある。

 

不安はあって当たり前で、解決に手を付けられるものと無理なものを分け、楽しめることは楽しみ、暦を進めていく、、、と思い、ひと足ずつ動かしてはいるのです。

 

けれどこのコロナを伴った流れでは、例えば四重奏の曲などで、普段なら、心を楽しませてくれるはずの頼みのメロディが、通奏低音と結託して共に重く、強く、しかも不穏に奏で続けており、心は逃げ場少なく、2ndか3rdの地味なフレーズの陰に息を潜めて、この楽章が過ぎるのを待っているようでもあります。

 

次の楽章が聴こえてくるには、ウイルスの性質が細かく明らかになり、納得できる対処法が容易に手の届くようになる必要がありそうですね。

 

いつもより、分量の多い疲れと共に、しばらくは、ずずずとすり足で動いていくのかもしれません。

おうちで梅仕事

 

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梅の実に塩をまぶしておくだけなのに。

ぐんぐん梅酢が上がってきて、容器のなかに積み上げた梅が浸かっていく過程は何度みても飽きません。

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こんなふうにほんの2、3日で、ほぼ全体が浸かってしまいます。

 

毎年、この梅雨入りのころ、梅を塩で漬けて梅酢につかるプロセスを観察するのですが、なにかこう、いつまでも、ずっと見ていたい思いになります。

 

この充実感はどこからくるのかな、と考えてみると、それは梅、という、人が作り出したのでない、この地球の自然が作り出したものに対峙している、ということに関係していると思い至ります。( もちろん人による改良はありますが)

 

そして、その自然の賜物に、長年伝えられてきた人の知恵で手を加えて変化させ、食の基礎になるものに育てる、そのプロセスに参加しているという思いが、しみじみとしたうれしさに繋がっているのではないかと思うのです。

 

6月は例年なら何かと忙しく、梅仕事も、わさわさと通り過ぎるついでに、ああ、もう梅酢がこんなに、なんて言いながら、やっつけでこなしてしまいますが、今年はコロナの事情で、否応なく、じっと梅の変化を見つめることになりました。

 

梅たちが梅干しになって食卓に上がるころ、どんな冬を迎えているでしょうか。