昼夜の交替のたびに開閉を繰り返していたチューリップも、つぼめる元気が薄れて開いたままになってくるとそろそろ季節が移るころとなりますね。
それとは関係ない話題になりますが、
昨日、「ぎじ的な」と書こうとして、「ぎ似」の「ぎ」が出てこなくて困りました。
もう年配といわれる年代に足を突っ込んでいますから、当たり前なんですけどね。
書こうとすると、手へんがチラつくので、あれ、手へん付いてたっけな、と逡巡しているうちに、旁(つくり)のほうもあやしくなってしまい、
「おかしいな〜ギモンのギだよね〜書けなくなったことなんて何十年もないのに」と、普段は呼吸するように紡ぎ出していた漢字のイメージを取り戻そうともがいたのです。
スマホを充電中だったので、辞書を使おうとするも、最近辞書を引くことが少なくなったせいで棚の奥に押し込められていて、やっとこさ取り出し、「ぎじ」を引いてみると、
そうか、2つ書き方があったんでした。
「疑似」と「擬似」。
手へんがチラついたのは間違いではなかったのです。
2つのイメージが干渉しあって一つの漢字が像を結ぶのを邪魔したのでしょうか。
こんなとき、くたびれかけた脳ではいったい何が起きているのでしょう。
それにしても本当に久しぶりに辞書を引きました。