アマビエ様、まだまだお帰りにはなれないようでまた4コマになりました。続きものなので2本一緒にアップします。
アマビエ様、最初はかわいらしかったのですが、描くうちに近所の困ったおばさん風になってきました。作者が滲んできたかもしれないです。
アマビエ様、まだまだお帰りにはなれないようでまた4コマになりました。続きものなので2本一緒にアップします。
アマビエ様、最初はかわいらしかったのですが、描くうちに近所の困ったおばさん風になってきました。作者が滲んできたかもしれないです。
昼夜の交替のたびに開閉を繰り返していたチューリップも、つぼめる元気が薄れて開いたままになってくるとそろそろ季節が移るころとなりますね。
それとは関係ない話題になりますが、
昨日、「ぎじ的な」と書こうとして、「ぎ似」の「ぎ」が出てこなくて困りました。
もう年配といわれる年代に足を突っ込んでいますから、当たり前なんですけどね。
書こうとすると、手へんがチラつくので、あれ、手へん付いてたっけな、と逡巡しているうちに、旁(つくり)のほうもあやしくなってしまい、
「おかしいな〜ギモンのギだよね〜書けなくなったことなんて何十年もないのに」と、普段は呼吸するように紡ぎ出していた漢字のイメージを取り戻そうともがいたのです。
スマホを充電中だったので、辞書を使おうとするも、最近辞書を引くことが少なくなったせいで棚の奥に押し込められていて、やっとこさ取り出し、「ぎじ」を引いてみると、
そうか、2つ書き方があったんでした。
「疑似」と「擬似」。
手へんがチラついたのは間違いではなかったのです。
2つのイメージが干渉しあって一つの漢字が像を結ぶのを邪魔したのでしょうか。
こんなとき、くたびれかけた脳ではいったい何が起きているのでしょう。
それにしても本当に久しぶりに辞書を引きました。
昨年の夏ごろからだったかな…? 花壇の一隅にニラみたいにビョーンと伸び、伸びたあげくカッコ悪く垂れ下がった葉の一群がありました。
これ何だったっけ?
たしか以前このあたりにスノードロップを植えていた記憶があるけれど、こんな葉っぱだったっけなあ。
そんなふうに気持ちの隅にありながらなんとなくそのまま日々がバタバタとすぎていき…
晩秋にガーデンシクラメンを植えるため、枯れかけた葉の残骸を抜いたところ、けっこう生きの良さげな球根が複数付いており、とりあえずフリージアの脇の空きスペースに埋めてみました。
そうしたら年明けて初春、つくしのようにツーと伸びて小さなぶどうのような花を付け、正体が知れました。
そうです、一つ前の冬に、青っぽい花も欲しい、とムスカリを植えていたのでした。花が終わったあと、コロナ騒動と重なったこともありすっかり存在を忘れてしまっていたのです。
ムスカリへの申し訳なさで一杯になりましたが、ムスカリは人の思惑など頓着せず粛々とたくさんの葉を伸ばしています。
来年はもっとたくさんのムスカリを見ることになるかもしれません。
春も本番、パンジーもとにかくとにかく咲いてくれています。
1997年、「だからみんな、死んでしまえばいいのに…」とポスターにアオリ文句が踊っていた『Air まごころを君に』。
反出生主義とみまごうアオリにやや反して、「しょうがないけどちょっと生きようか」くらいの所に軟着陸したかなと、当時の私は受け止めました。
そして今回24年後の『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』で…
具体的なネタバレはありませんが、少しの匂いも嫌な方はご注意下さい。
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今回もやっとこさ、生きるほう、自分と他者が存在するベクトルに乗っかれたように思いました。
何となく大地との和解?結びつき?を匂わせる描写も感じました。
中には宮沢賢治のお話に出てくる、グスコーブドリのような展開になったキャラクターもいましたけれど…
だいたいの主だったキャラクターが死なないですむ場所に足を着けられたような印象を持ちました。
アスカとペンペン、コロナが吹き飛ぶように元気一杯?に描いてみました。
私の周りでも桜が咲き始めたようですが、地元の桜祭りは早々と中止が決まっており、今年も桜で盛り上がるようなことはなさそうです。
あまり政治家のお顔を描いてみることはないのですが、なんとなく落書きしていたらちょっと似てきた気がしたので、仕上げてみました。
来年は桜のイベントも戻ってくるでしょうか。
こちらはザザッと描いてみたもの。こっちのほうが勢いがありますね。領地を見回る地主さんのようになりました。
「ナルシスト」の言葉の元になった神話のナルキッソス、カラヴァッジョ様が描かれていましたね。こんなんだったかな、うろ覚えでざっと描いてみました。足のほうの構造と服装がどうも分からない。
今、花壇の水仙が満開です。去年も水仙の記事を書いていますが、たしかもっと月末の方でした。
今年は春の足が早くしかも勢いがあるようです。だからでしょうか、花粉も手強く、マスクを始終しているのにもかかわらず喉や目が痒いです。
さて、水仙の花言葉は「自己愛」ですが、我が家の水仙たちをみるとほぼ同時にぐいぐい伸び、蕾も一斉にそそくさと付け、互いの空気を読むかのように一斉にワーッと咲き、協調性のかたまりのようです。
なぜ自己愛の象徴にされているのかなぁ、と調べると、どうも水仙が毒を持っていることからきているのでは、という説が私にはもっとも頷けるものでした。
「はぐみをしてあげて下さいね。」
ずいぶん前、近場の寄せ植え教室で、シクラメンのお手入れをそう教わりました。
「はぐみ」とはシクラメンの葉を外にやさしくひっぱりながら、花茎を真ん中に持ってくることです。
こうすることで花茎が葉の陰になって生育が損なわれたり、ばらばらに伸びたりせず、お店で見るような美しい形姿に育ちます。
講習が終わり、お土産の自分でこしらえた寄せ植えを抱いて、「はぐみ」ということばを口の中で転がしながら帰りました。
以来、なんだか「はぐみ」ということばが気に入り、花壇でうちのガーデンシクラメンの世話をするときに「さあ、はぐみをしようね。」なんて話しかけたりしました。
「はぐくむ」ということばに通じるものがあるように感じましたし、「Hug」 という英語も連想して、何かほんわかとする心地がしたのです。
そしてある日、何気なくいろいろ花のことを調べていて、シクラメンのことが詳しくのっている情報に辿り着き、「葉組み」という文字が目に入りました。
そ、そうですか。葉を組む、その通りですよね。
プシューと音を立てて、ことだまが抜けていってしまいました。いや、私が妄想を膨らませていただけで、「葉組み」 に罪はないのですが。
それでも「はぐみ」が、ただの園芸用語に分類されてしまった気がして、勝手に残念な思いにひたったものでした。
「はぐみ」をするたびにその事を思います。