こころ、てくてく……表現するこころ

漫画家 海山かのんが、表現する人々のことなど、つぶやいたりマンガに描いたりします。

はじめてであったおいしさ……フルーツほおずき

 

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新しいおいしさに出くわして驚いたことは最近なかったように思います。

 

もちろん、何かを食して予想外においしかったり、まずかったりはありますが。想定から大きく飛び出すようなことはなかったです。

 

最近私の食べ物の出会いの幅がそう広くないからかもしれません。

 

そんな中、ほおずきをいただきました。「これは、フルーツほおずきといって食用なんですよ。」

 

食べられるほおずきがあるのは知りませんでした。

 

一般的なほおずきを口に含んだことはありますが、( うまく鳴らすことはできません)どんな味だったか、よく思い出せません。

 

でも色や雰囲気から、柿の味の薄まったようなシンプルな味を予想して、そのフルーツほおずきを噛み締めたところ、

 

「えっ、こう来る?」

意外な華やかさが口に広がりました。

 

何だろう、数種類のトロピカルな果物の味が連想されるのだけれど。

 

しみじみその面白いギャップを味わったひとときでした。

 

 

 

そろそろニチニチソウのフェイドアウト

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うちの庭は基本的に私一人でぼちぼち回しているテンションの低い空間です。

 

家族は「ねえねえ、XXX の花が咲いてるの、見た?」と言ってもだいたい「そうだっけ?」ということが多い。張り合いがないですね。

 

私の手の掛け具合では少しでも難しい植物はすぐ枯れさせてしまうので、自然とある程度ほっといても大丈夫なものたちで占められています。

 

季節を彩る花にはとりあえずせっせと咲いてくれる一年草が中心です。

 

冬〜春はガーデンシクラメンビオラ、夏〜秋はニチニチソウ

 

その交代の時期が迫ってきました。まだ保っているニチニチソウも、だんだん弱ってきています。

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ここのところの暖かさでまだがんばって顔を上げてくれています。よく見ると花びらがボロくなってきている。ありがとう!

思いがけない11月の帰省……アルビノーニ オーボエ協奏曲 第二楽章

 

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もう何十ン年ぶりになるんだろう、11月の札幌の土を踏むのは。

 

もちろん毎年帰省はしているのです。しかし帰省ですから、盆、正月、年度末など切れのいい時期になりがちです。11月は理由がなければ選ばれにくい。

 

このコロナのことで目処が立たずに、今年は11月にホテル泊で変則的な帰省をすることになったのです。

 

紅葉が過ぎ、季節の彩りのカードをほぼ使い果たして、雪交じりの雨の日などは、雪が積もりきって解けなくなった根雪の真冬より寒さがしみてくる、晩秋。

 

北海道、行くならいつがいい? と人に聞かれると、私は、紅葉終わった11月からはちょっとね、根雪になってからは意外といいよ、なんて答えたりしますし。

 

それでも暮らして季節に日々向き合い、落ちきって色をほとんど失った落ち葉をゆっくり踏みしめ歩くときに、ふと何かほっとするような明るい心持ちが訪れることもあったのです。

 

あれは何だったのかしら、11月に帰ればそんな思いが甦る瞬間もあるだろうかと軽い期待を抱いていました。

 

けれどこんな数日の、ホテル泊の慌ただしい帰省に、故郷はそんな奥の顔を見せてはくれなかったのです。

 

足を伸ばした神威岬で、ブリザード並みの横風をぶち当てられたのが故郷のプレゼントでしょうか。

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積丹半島は若い時分に毎年泳ぎに行ったり、キャンプなどで訪れていました。今回生まれてはじめて、晩秋に、海岸線をずっと辿る機会に恵まれたのです。

 

天気はほとんど雲に覆われ風強く雨が降ったり止んだり、時折ちらっと雲が切れて光がのぞくくらい。

 

波が大小様々にごつごつした勇壮な岩に砕けて、木田金次郎の絵のようでした。

 

 

若い頃晩秋にはよく聴いていた曲。今聴くと少し感傷的かなあとも思いますがやはり好きな曲です。

 

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舞い踊る「風」…藤井風ライブ

 

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藤井風さんを知ったのはテレビでMVが紹介されたのを偶然目にしたとき。

 

そのときふと私が長年好きなロシアのバレエダンサーが心に浮かび、その中央アジアにルーツを持つ踊り手を思いながら、

 

この藤井風という青年は、踊るのだろうか、ぜひ踊りを見たい、と希望しました。

 

彼は自ら踊り歌うことのみならず、鍵盤を踊り歌わせる人でした。

 

私はつくづく、辺境性、異郷性と洗練が、研ぎ澄まされた表現で同居している、そういう質感に惹かれるのだなあ、と思います。

 

実家にあった復刻版日本文学全集の中で、宮沢賢治に真っすぐ手が伸びたのも、ひとつにはそういう好みから来ているのでしょう。

 

昨日は武道館で彼のライブが開催されました。私は配信チケットの視聴です。(抽選にはずれたのです) 

 

武道館はThe Who 以来になります。iPadのライブが入り込めるか不安でしたが、オペラグラスなしで表情や手元が見られたので良しとします。

 

天から二物も三物も与えられているような藤井風さん。イケメンすぎるのがちょっと気になりますが、飄々としたオッチャンになるかなあ、と楽しみです。

箸が転げてもおかしくなりたい

 

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なんだってあんなにしょっちゅう笑いの発作に襲われてたのか? 小学校高学年辺りから中学にかけてくらい。

 

何に笑ってただろう、私は。教科書の、歴史的人物の肖像画とか写真を変な顔に落書きしたり、書き足して無理やり先生に似せたりし、隣りの人にこっそり見せて、2人で笑いが止まらなくなったりとか。

 

私は授業が退屈だとよくそれをやり、記憶の中で一番の傑作は、国語の教科書で、立原道造の写真を変な顔にいたずら書きし、隣りの人が授業中に思わず吹いたもの。今見たら笑えるだろうか。取っておけば良かった。

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そうそう、このお人でした。

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う〜ん…

やはり若い頃のほうが思いきりよくパンチのきいたいたずらができたようです。今一つ畏れ多くてどうもいけません。

 

ネットに、そういう教科書の写真や図に落書きした傑作を集めたところなどがあって、最近もやってるんだなぁと面白く眺めます。

 

歴史の黒船ペリーがハリーポッターのスネイプ先生になったりしてるのとか何度見てもおかしい。あと、やっぱりこれやる奴いるんだ、と思って笑ったのが、筋肉標本を「進撃の巨人」の巨人に見立てて調査兵団を書き足しているもの。

暇な時に見てね。教科書の落書き集 - NAVER まとめ | Funny posters, Haha funny, Funny pictures

 

コロナ禍以来、現実がシビアすぎてなかなか笑いころげるのが難しいけれど、また何か動画サイトなどを探索してみようか。

 

画像は「ニコニコ咲いてる!」と思ったニチニチソウです。ニチニチソウもそろそろ終わりの季節です。

はじめての「あけび」

 

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こんなに鮮やかに明るい紫色の果物や野菜はほかに思いつきません。

 

生まれてはじめて「あけび」を手に取り、食しました。

 

よく行くお店の店頭に並んでいて、その紫色に思わず手が伸びたのです。

 

故郷北海道にはあけびがありませんでした。調べるとミツバアケビというのはあるようですが、それにもなぜか出会えませんでした。

 

本州に越してきてからは、よその庭で見ることがありたいへん気になる存在でしたが、なかなか縁が出来なくて今まできました。

 

それにしても目の醒めるような紫色です。

 

絵の具や色鉛筆などの三原色、赤青黄で色作りをするとき、赤黄でオレンジや朱、青黄で緑を作るのは比較的たやすいですが、赤青でいい感じの紫を作るのは私の感じではなかなか難しいです。

 

そういうこともあり、紫ってちょっと色の中でも別格な感じがしています。

 

あけびはどんな仕掛けでこんな紫に装えるのでしょうか。

 

数日、目で堪能したのち、2つに割って、はじめて口に運びました。

 

薄甘くて、さっぱりして悪くはありませんが、他に果物が有れば選ばないかもしれないです。

 

でも来年からは、やはりこの紫色にひたるために買い求め、実を口に含むだろう、と予感します。

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アレの名前が出てこない

 

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買い物しているスーパーがいくつかあって、そのうちのひとつの名前が、今朝出て来なかった。

 

私はそこそこの年齢だし、俳優の名前が出てこないことはふつうにあります。

 

けれどさすがに時々とはいえ長年利用しているスーパーの名前が出てこないのはどんなものでしょう。私もいよいよ始まっちゃったかな、とがっかりしました。

 

つらつら考えてみると、思い出せなくなる直前に、過去に住んだ複数の場所のスーパーについて、看板や雰囲気などあれこれ思い浮かべて比較したりと色々記憶の箱を出し入れしています。

 

ははあ、これはスーパーに関する記憶の場所が混線して変に繋がったり切れたりしているのでは、と思い至りました。

 

そう決まると、この、ふだんの日常では当たり前に出てくるひとつの言葉が思い出せない感覚をちょっと楽しんでみよう、という気になりました。

 

あえて調べたり、家族に聞いたりせず、自然に思い出すまで放置する、プロセスを観察してみることにします。

 

身近なことばのひとつがどうしても思い出せない感覚は何だか妙で、すぐそばにある別空間にすべりこんでしまったような、視界の一部がすっと覆われているような心地がします。

 

それが思いがけず新鮮で、しばらくこの感覚を抱えたまま過ごすのもいいなと思ったほどでしたが、

 

スーパーというものが日々思い浮かべるようなものであるからか、思いがその辺りをうろつくうちに、わりに早く何かのタイミングで、滲み出るように、カタカナでそのスーパーの名前が浮かび上がってきました。

 

ピースがぱちん、とはまるように元の世界が回復してほっとしました。が、途端にかき消えたあの妙な感覚が惜しい気もしました。