こころ、てくてく……表現するこころ

漫画家 海山かのんが、表現する人々のことなど、つぶやいたりマンガに描いたりします。

コロナで帰れん!……『世間ぐるぐる』第18話

 

今日は私が描いている『世間ぐるぐる』シリーズのマンガをアップします。内容はタイトルどおり、コロナで帰省できないお話です。

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『世間ぐるぐる』は、私が参加している「世間学会」という年2回の会合で、置かせていただいている漫画です。今年の夏の集まりは中止となり、漫画はネットにアップする事にいたしました。

 

コロナの話題のエッセイマンガを以前にアップしています。

 

 

ところで余談ですが、北へ帰る歌といえばこれ。現在、R&B などでヒットを飛ばしている藤井風氏がデビュー前たくさんアップしていた昭和歌謡シリーズで弾いています。私は演歌は基本苦手ですが、思わず海馬が震えて歌詞を口ずさんでしまった、入魂演奏。

 

コーヒーメーカーを探して

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スイッチをいつものように押したのに、あるはずの答えが、ない。

 

毎朝、粉をセットして、スイッチを点灯させると、お湯がポコポコと送られ、香りが満ちてくる、当然刻まれるはずのリズムが、来ない。

 

まあ電化製品が13年も毎朝動いていたのだから、寿命といってしまえば、それまで。コーヒーは毎日入れるから、後釜を探さなくては。

 

この機種は本当に使いやすく、手入れも楽ちんだった。

 

そんなにこだわりはないけど、インスタントではなく、豆を挽いた粉のコーヒーを手軽に毎朝、そこそこ美味しく飲みたい、家族の誰もが簡単に使える、という、我が家のニーズにぴったりだった。

 

だから、似たような機能のものを選ぼうとネットを調べてみると、んん? 選択肢があまりないような? こんなもんだったっけ。13年前はもう少し日本のいろんなメーカーが出していたような気がする。勘違いかな?

 

それに何となくあちこち安っぽくなっている? 取っ手のところとか、使いにくそう。気のせいかなあ。レビューでは、普通に使える、コスパが良いとの声が多く、まあこれ一択だろうと目星はついた。明日にでも近所の家電量販店か、ネットで手に入れよう。

 

毎朝馴染みの、心地よい音と香りのリズムに近いものが戻ってくれるといいけれど。

 

次は13年、もたないだろうなあ。

訪れた庭園にて

 

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田や畑、水場を含んだ大きな庭園でぼんやり過ごし、鳥や虫の声、風音に包まれていると、大地、地球は、人が今騒いでいる問題など関心なく、淡々と営みを続けているのだな、と感じました。

 

人など居なくても何億年も地球は地球をしてきて、表面にさまざまなことが生起するに任せていたのでしょう。

 

ガーベラの真っ直ぐな咲き方に惹かれ、写真を数枚撮り、画像に手を入れているうちに、なんだか花芯のあたりが最近TVでときどき見るコロナの画像やCG に見えてきてしまった。

 

忌み嫌われるコロナも、ふと、やはり命の一つの形なのだろうか、と思ったことです。

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呼吸するガーベラ

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出かけた先の庭園でガーベラが群生しているところがあったけれど、それを見た時、私には一瞬何の花だか分からなかった。

 

ガーベラといえば一輪で、花屋さんやホームセンターの鉢で行儀良く、どこかぼんやりした風情でたたずんでいるのを、見慣れていたからでしょう。

 

それが首をあちこちにぐいぐい伸ばし、他の植物とも張り合うように、大きさも背も色もとりどりに、ある。

 

これがガーベラの本来の咲き方に近いのかな、いや、鉢植えの一輪咲きのガーベラがどう感じているかはわからない、意外と、ライバル無しでのんびり咲いてるのを気に入っているのかもしれない、などと、私はつい思いを巡らせる。

 

ここではランタナも、こんなふうに広がるの?というくらいに可能性を発揮している。ちっちゃい鉢植えを枯らしたことしかなかった私は驚くばかり。

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銀河鉄道のアマビエ2……賢治とアマビエが会っていたら?

 

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江戸時代、疫病から人を守るというアマビエという神様は、出現時に、「私の姿を描き、人々に見せなさい。」と告げたそうですが、そのとき目の前で対応した人物を「コイツは絵心あるぞ。」と見てそう言ったのではないでしょうか。

 

その人物が描き広めたであろう瓦版のアマビエのチャーミングさを見て、私はそんなふうに思います。現在おまんじゅうなどいろいろな商品のキャラクターの元になっているのもうなずけます。

 

ならば、宮沢賢治の前に現れたとしたら、「私の物語を、詩を書いて人々に見せなさい。」と告げたかもしれません。

 

そして賢治はアマビエの守護でお話を書き、彼の病も癒え、末長く作品を……とはならず、彼は晩年、東北砕石工場の技師として、猛烈な営業活動の途上、汽車で冷気にあたり病勢が増し、二度と活動して回れるような身体に戻ることなく、2年後に亡くなります。

 

いつも賢治はそのように、己の弱い体に盛りきれないほどの信念を優先させて、結果命を縮めてしまったように見えます。

 

彼の、唯一無二といえる手ざわりと輝きを持った創作空間を、私たちに残してくれることを最優先にしても良かったのに、そのためにぐっと堪えて、養生してくれていたら、と、つい、考えてしまう。

 

もちろん、賢治は彼の信仰の世界観に、命がけでコミットしていたのであって、彼の信念や行動と作品はひとつで、切り離せないであろうことは、承知しているつもりです。

 

だからこそ賢治は、雨にも風にも負けない丈夫な身体を、信念を盛り切れるような身体を望んで、詩にも記したのでしょう。

 

それでも私は思ってしまう。もっと、見たかったなあ、と。

 

今の人でいえば、藤井風さんのように、生まれ育った土地の空気やことばと、己の培われた能力たちがまろび合って、あふれ出すような、そんな独特の手ざわりをもった創作空間を、私は果てなくもっと、見たかった、老年様式まで読みたかった。

 

というのが、研究者でもない、貪欲な1ファンの、詮ない夢想です。

名残り惜しいさくらんぼ

 

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あまり堪能しないうちにいつも季節が過ぎてしまう…

 

なぜかなあ、と考えてみた。

さくらんぼのイメージと感触にはとても愛着を持っている。もちろん味にも。でも愛の量に見合った消費をしていないな、と思う。

 

子供たちの誕生日がこの時期で、子供に作る誕生ケーキにのせるフルーツは毎年さくらんぼだったけれど。

 

わが家は毎朝何か果物を少しずつ、コーヒーを飲みながら食べている。この季節、何となくオレンジやキウイを選んでしまっているような気がする。さくらんぼが実際に食卓に並ぶ頻度は、多くない。

 

さくらんぼより当たり外れが少ない、とか、いちばんは、かけた値段に対しての果実量の差、かもしれない。私の家族はよく食べる人たちなので、そこはつい優先されてしまう。

 

しかし、東北でさくらんぼを作っている友人によると、さくらんぼはとても難易度が高い作物なのらしい。高めの価格はそれだけ手がかかっているかららしい。そう聞くと、安価な輸入物に手を出してしまう事に、少し後ろめたさを感じる。

 

今年も今ひとつ食べ足りないままさくらんぼの季節が過ぎようとしている。画像は食べる前に撮ったものを加工。もう一度食べたい気持ちを込めてみた。

『どこかに美しい村はないか』上映されます。

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私が宮沢賢治の漫画で参加している、ウェブマガジン『MIZUTAMA』代表田下啓子さんがプロデュースされた映画、『どこかに美しい村はないか』が、7月4日(土)、5日(日)に、岩手県宮古市のシネマ・デ・アエルにて上映されます。監督は能勢広氏です。

 

映画の公式サイト( 冒頭の映画のチラシの絵の下のリンクから飛べます) では監督と田下さんの本作にまつわる対談の動画や、予告編がご覧になれます。音楽を担当されたRakira 氏の祝福感に満ちた楽曲の一部も聴くことができます。お勧めです。

 

また、上映されるシネマ・デ・アエルのサイトはこちらです。

https://cinemadeaeru.wixsite.com/cinema-de-aeru

 

よろしければ過去記事もご覧ください。