いつの間にかさくらんぼの季節ですね。色鮮やかなわりに、今日のは甘くなかった。甘くないさくらんぼをつまみつつ、何だか疲れているなあ、不安続きだったし、それを紛らわす幅も少なかったし、と、この春を振り返りました。
もちろん、生きてきて不安のなかった時期なんてないのだけれど。
生きてる以上、生病老死の苦はあるし、災厄の渦中であっても平時でもそれは通奏低音のようにそこにある。
不安はあって当たり前で、解決に手を付けられるものと無理なものを分け、楽しめることは楽しみ、暦を進めていく、、、と思い、ひと足ずつ動かしてはいるのです。
けれどこのコロナを伴った流れでは、例えば四重奏の曲などで、普段なら、心を楽しませてくれるはずの頼みのメロディが、通奏低音と結託して共に重く、強く、しかも不穏に奏で続けており、心は逃げ場少なく、2ndか3rdの地味なフレーズの陰に息を潜めて、この楽章が過ぎるのを待っているようでもあります。
次の楽章が聴こえてくるには、ウイルスの性質が細かく明らかになり、納得できる対処法が容易に手の届くようになる必要がありそうですね。
いつもより、分量の多い疲れと共に、しばらくは、ずずずとすり足で動いていくのかもしれません。