こころ、てくてく……表現するこころ

漫画家 海山かのんが、表現する人々のことなど、つぶやいたりマンガに描いたりします。

色鮮やかなさくらんぼに

 

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いつの間にかさくらんぼの季節ですね。色鮮やかなわりに、今日のは甘くなかった。甘くないさくらんぼをつまみつつ、何だか疲れているなあ、不安続きだったし、それを紛らわす幅も少なかったし、と、この春を振り返りました。

 

もちろん、生きてきて不安のなかった時期なんてないのだけれど。

 

生きてる以上、生病老死の苦はあるし、災厄の渦中であっても平時でもそれは通奏低音のようにそこにある。

 

不安はあって当たり前で、解決に手を付けられるものと無理なものを分け、楽しめることは楽しみ、暦を進めていく、、、と思い、ひと足ずつ動かしてはいるのです。

 

けれどこのコロナを伴った流れでは、例えば四重奏の曲などで、普段なら、心を楽しませてくれるはずの頼みのメロディが、通奏低音と結託して共に重く、強く、しかも不穏に奏で続けており、心は逃げ場少なく、2ndか3rdの地味なフレーズの陰に息を潜めて、この楽章が過ぎるのを待っているようでもあります。

 

次の楽章が聴こえてくるには、ウイルスの性質が細かく明らかになり、納得できる対処法が容易に手の届くようになる必要がありそうですね。

 

いつもより、分量の多い疲れと共に、しばらくは、ずずずとすり足で動いていくのかもしれません。

おうちで梅仕事

 

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梅の実に塩をまぶしておくだけなのに。

ぐんぐん梅酢が上がってきて、容器のなかに積み上げた梅が浸かっていく過程は何度みても飽きません。

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こんなふうにほんの2、3日で、ほぼ全体が浸かってしまいます。

 

毎年、この梅雨入りのころ、梅を塩で漬けて梅酢につかるプロセスを観察するのですが、なにかこう、いつまでも、ずっと見ていたい思いになります。

 

この充実感はどこからくるのかな、と考えてみると、それは梅、という、人が作り出したのでない、この地球の自然が作り出したものに対峙している、ということに関係していると思い至ります。( もちろん人による改良はありますが)

 

そして、その自然の賜物に、長年伝えられてきた人の知恵で手を加えて変化させ、食の基礎になるものに育てる、そのプロセスに参加しているという思いが、しみじみとしたうれしさに繋がっているのではないかと思うのです。

 

6月は例年なら何かと忙しく、梅仕事も、わさわさと通り過ぎるついでに、ああ、もう梅酢がこんなに、なんて言いながら、やっつけでこなしてしまいますが、今年はコロナの事情で、否応なく、じっと梅の変化を見つめることになりました。

 

梅たちが梅干しになって食卓に上がるころ、どんな冬を迎えているでしょうか。

コロナと新聞折り込み広告……不要不急日記1

 

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新聞を朝ポストに取りに行くと、軽い!

 

一般に新聞の折り込み広告は、おおざっぱに言うと週末に向けて、どんどん厚さを増して、土曜はずっしりとピークに、日曜はぐんと減り、月曜日は1番少なく、火水は少しずつ、こんなリズムを刻みますね。

 

それが、4月の緊急事態宣言以来、この頃緩和されつつあるとはいえ、いまだ少ないままです。

 

自分の感覚にそういうリズムが深く刻まれていたということに、失われて気づきました。その驚きをネタにちょっとしたマンガにしてみました。

 

私は若い頃、新聞の朝刊を配達するアルバイトをしていた経験があり、新聞の重さの変化のリズムが体にも強く入っていたのかもしれません。

 

少しずつ、スーパーやファストファッションの広告が復活してきたようですが、どれほど回復するでしょう。

 

ところで、新聞の折り込み広告は、販売店の大切な収入源であったと記憶しています。

 

アルバイトでお世話になった新聞販売店のことが気がかりです。

蜜蜂と電車

 

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Suicaへのチャージをしてない、最近。

 

緊急事態宣言以来、電車は動いていても、私には何か軍用列車のように感じられ、勤め人でない私の用件はほとんど不要不急に分類されるように思え気が引けた。

 

それでも5月半ばからは、意を決して重要度の高いものを選び、対策をしてそろそろと動きはじめた。

 

いまだ3月時点のチャージで間に合っている。

 

それ以前なら、人と会った帰り道、改札機の所で、「いつの間にか残り少しになって慌てるんだよね。」「交通費ほんと半端ないね。」なんて会話を交わして別れていたのだっけ。

 

世の中もそろりと動いてきたから、チャージするのも間もなくだろうけど。

 

 

駅前に咲いた花にミツバチの写真から。ちょっと時間が経ってしまった。花とミツバチ、命を鼓舞してくれる組み合わせだ。

 

 

思いがけない焼肉……ステイホームの風景

 

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子供が小学生くらいの頃、毎年5月に一回、息子たちを連れて市の公園でBBQをしていました。彼らに火を扱う経験をしてほしかったのです。

 

やがて中学、高校と進み、彼らの休日に親との予定が優先されることは無くなっていきました。まあ当たり前ですね。5月のBBQ は、夫婦のみでちんまり、炭火で美味しく色々なものを食す日、として毎年継続していました。

 

そして今年です。新型コロナにより公園のBBQ 会場は閉鎖となり、夫婦の恒例行事は、とりあえずホットプレートの焼肉を家で、ということになりました。

 

そこに、友達や同僚との予定が全滅してしまった、とっくに成人済みの息子たちが、親の用意する肉を狙って合流してきたのです。

 

ひげ面の息子たちとホットプレートを囲みながら、何と珍しいこと、コロナのことがなければこんな風景は滅多に見られるもんじゃないね、と、記念の写真を撮ったのでした。

引きこもってもいいんだなぁ。。。?…ステイホームへの思い

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「お家に居ましょう。」と大っぴらに推奨されたのって、産前産後を例外として、はじめてかもしれない。

 

元々、本を読んだり、手仕事をしたりという、家であれこれすることが好きだったし、選んだ「漫画家」という方向も、家に篭りがちになる道筋だと思います。

 

それが何となく後ろめたいような感じを無意識に抱いていて、一生懸命、人と運動する機会を定期的にもうけたり、美術館やイベントに出かけたり、ちょっと駅前に出てみたりとか、バランスを取るようにしていたようです。

 

本ばっかり読んでてもダメなんだよ、という子供の時の、周囲の声のすり込みもあったのでしょう。

 

で、こんなふうに、おこもりを公に認められると、えっ、と一瞬真っ白になったのち、けっこう頑張って天秤を保っていたことに改めて気づきました。

 

色んな、外でやる事をしなくても良い日が長くできたら、積読のあんなこんな本読みたい、やり切れなかったゲームもしたい…と思っていたのに、こんなチャンス?になかなか集中できない。

 

気持ちのどこかで、一旦引きこもりはじめたら、どどーっと際限なくお篭り空間を濃くしてしまいそうで、ためらいがあるのかもしれません。

 

画像はうちのパンジー

実は虫に食べられてボロボロなところが多くなってしまったのですが、きれいなところを選んでなんとか作成しました。

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夢のパフェ……福を呼ぶ文房具2

 

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新緑のなか、久しぶりに会った友達とランチをして、話し足りずにカフェに流れ、向かい合ってパフェをつつきながら他愛のないことをやり取りする…

 

そんなシーンがそこかしこにみられる春を迎え、ゴールデンウィークが来て、そして初夏、と、いつものように暦が進むのだと…

 

そのような華やぎが書き留められるように、当然そのような春が来る前提で、そういう願いを込めて企画されたのではないか、このノートを見るとそう思います。

 

もちろんお家で、このようなパフェを作り、オンラインお茶会を友人とする事は可能ではあります。でもやはり、春の盛りや初夏の緑や花影から流れ出す空気感も欲しいところです。

 

私がこのノートを買った時、コロナの影は迫ってはいましたが、まさかここまでになるとは想像していませんでした。このノートがディスプレイされていたお店も、SCの営業自粛に伴い閉まったままです。

 

このノートに何を綴ろうかと思いをめぐらしながら、こんなパフェを人々と囲む日を夢見ます。