私は仏教にも道元にも全く素人であるのですが、正法眼蔵の「全機現」という言葉に、何となく自分なりの理解を持てるのではないか、と思い、このことの周辺をうろうろしています。
私は絵を…人や風景など事物を描くときの肝は、あらわれている形を描くというよりも、それをあらしめているものを感じ描くことだ、という理解を持っています。あらしめているもの、とは、対象がそこにそうして在る機縁すべて、光であったり影の落ち方であったり、対象から溢れてくる勢いであったり、それの来し方歴史であったり、周囲の物たちなど様々です。
この「全機現」という言葉に触れて、ふと「あらしめているもの」が対象にとっての全機にあたるのではと思い、そこから、私もまた絵なのだ、自分をあらしめているものすべてが今この自分を「現」しているのだ、という理解をうっすらと持ちました。
それでこのところ、「全機現」という言葉におこがましくも腰かけて、ぶらんこのように揺られているわけです。「生也全機現」「死也全機現」。優しい、大きく包む言葉と感じます。また容赦のない厳しさも感じます。自分の行い、選択が私として「現」していく機縁となるわけですから。